紅葉漬の由来
 

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17代善兵衛まで使用していた梁滝
 紅葉漬を探るには、福島・宮城両県を縦貫して流れる二百四十キロの阿武隈川を抜きにして語ることはできません。この母なる川は、今もなお悠々と流れております。

 昔から、海から川へ遡るといわれる秋鮭は流域の生活文化や食生活に大きな役割を果たしています。特に宮城県伊具郡丸森町と福島県伊達郡梁川町の境、かつて仙台藩と幕領となった伊達郡を国境とする耕野(こうや)、栗生(くりゅう)地区は川幅が極端に狭く、鮭漁にもっともふさわしい漁場だったのです。

「クタダ巻」とか「簗滝(やなだき)」といった当時の鮭漁場だった名残りが多くあり、大巻神明(おおまきしんめい)、九滝神社(くたき神社)が祀られ、船頭や近郷から信仰されていました。
  「巻」というのは、曲がりくねった川にできる、ゆったりとした渦巻きのことで、川底に沈めた網を引き上げ漁をします。「滝」というのは人の手で魚道と人口の滝を作り網を仕掛けます。

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昭和初期の様子
 この地方では若い鮭を銀毛(ぎんげ)と呼び、巻、滝までの漁場で多く獲れましたが、売り先は享保(きょうほう)年間より続く五十集(いさば)問屋を営む丹野屋だった言われています。

 たくさん獲れた鮭の消費地だった福島県の県北地方では、現在でも秋祭りのご馳走に鮭を用いる風習があります。秋には鮭のアラ汁、寒い冬には鮭の酒粕汁が、各家庭の味をそのままに伝えております。海の魚が入ってこない山間のこの地方ですから、昔の人は流域でこのように獲れる鮭の調理法や保存法については、かなりの工夫が重ねられたに違いなく、保存の設備も技術もなかった時代に、生の状態で鮭を食べたいと思う気持ちが起きるのも当然かもしれません。

 生鮭と糀(こうじ)との出会いが「阿武隈の紅葉漬」誕生のきっかけとなりました。生鮭を独特の加工工程を経て糀と漬け込み生の状態で食べる漬け物には、先人のたゆまぬ試行錯誤の繰返しがあっただろうと考えられます。

 明治のころまで丹野屋では、裕福な地主様とか大店より糀と大瓶を与えられお抱えの魚屋として正月の酒の肴に造っており、いまでも、その当時の名入りの大瓶が残されています。 このようにして紅葉漬の製造伝承は現在まで続けられてきました。生鮭の切り身の色とイクラの鮮やかさに、真白い糀の彩りを加えて、紅葉の季節に漬け込むこの伝統的な食品に、紅葉漬の名がつけられたのも極く自然なことです。

 昭和中期頃より鮭の遡上は少なくなりましたが、先人の努力と工夫で守り育ててきた伝統の技術と味を、今こそ原点にかえりその本質を見極め、さらに後世に確実に伝えることが、こころを染める故郷の味「阿武隈の紅葉漬」の本当の姿だと思います。
  
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